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時計の針が前にすすむと「時間」になり、後にすすむと「思い出」になる――とは、寺山修司の言葉である。人生の日向の住人として、バット1本で生涯年俸50億円を稼いだ清原和博氏(48)。だがいまや、番長の時計の針は前にも後ろにも進まず立ち往生するばかりで、思い出という名の貯金はつきかけているのだ。
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その運命が劇的に転回したのが、昨年3月の薬物使用疑惑報道の際である。
「CMはもちろん、野球解説やバラエティ番組の仕事さえもなくなった」(芸能関係者)
この半年後に離婚。そして今年の2月には、家族と過ごした渋谷区広尾のマンションを手放したのだった。
「売却価格は1億5000万円程度。彼はカネに困っていて売却を急いだがゆえに、業者にかなり買い叩かれた恰好です」(同)
そればかりではない。登記簿謄本によると物件には、長男と次男に対して合わせて8300万円強の「養育費債権」が設定されていた。
「清原さんの収入が不安定になった場合、養育費の支払いが滞ることを奥さんは心配し、これを設定したのでしょう」(税理士の鈴木修三氏)
それに加えて、各所への支払いが嵩んだ結果、
「彼の手元に残ったのは、5000万円ぐらいだった」(先の関係者)
それでも、仕事が続けば時計の針もすすむはずだった。
「ここ数年で大きな収入と言えばFXのCMくらいのもので、ギャラは1000万円。バラエティ番組だと1本80万円だけど、今年の出演は5本に満たず、開店休業状態です」
と、テレビ局幹部のひとりが次のように打ち明ける。
「そんななかで、ぽつぽつとパチンコ営業の仕事は入っていたものの、“立ち続けていると膝が痛くて辛い”と言って、乗り気でなかった。まあ、ドサ回りのようなものだからやりたくないというのが本音でしょう」
その一方で、“出費”は抑えられない様子で、たとえば、
「背中の両肩部分にあるドラゴンの入れ墨を指して、“150万円以上かかった”と話していたこともあります」(先の関係者)
さらに、悪いことに今後の展望は全く開けておらず、にっちもさっちも行かぬ状況なのだ。
「本人は指導者としての球界復帰を熱望しています。とはいえ、声を掛ける球団はない。そのうえ来年には、『清原ベースボールクラブ』という少年野球チームを立ち上げたいと言っているけれど、資金面で折り合いがついていないのです」(同)
現在、番長は港区内にある家賃40万円のウィークリーマンションの一室で暮らしている。
「週末の明け方、3時とか4時ごろにひとりでよくやってきますよ」(近所のコンビニ店員)
――あきかぜのふきぬけゆくや人の中(久保田万太郎)
懐の寂しさのみならず、孤独がつきまとう番長なのである。
篠原信一、柔道を離れた経緯を語る
篠原信一が人生でもっとも泣いたのは、2000年シドニー五輪の100kg超級決勝でのいわゆる「世紀の大誤審」。その経験を選手としても指導者としても活かすことはできなかったという。2大会務めるのが通例だった全日本の監督をロンドン五輪終了後に辞任し、准教授という肩書を得ていた天理大学も2013年3月で退職。男泣きを活かす場を、篠原は自ら返上したのだ。
――柔道に対してくすぶってるものはないんですか?
「そもそも言われるがままにやってきましたからね(笑)。性格上教えるということは向いてないとわかってましたし、“柔道が好きだ”ということもなかったので。ちょうど40になるタイミングでしたし、自分のやることを自分で決めようと思ったんです」
――それで廃棄物関係のお仕事に。べつにこの方面に明るかったわけではないですよね?
「まったく(笑)。辞めることを決めたとき次のことは何も考えていなくて。それまで公私にわたってさんざんお世話になってきた先輩がふたりいるんですが、その方々がたまたまそれぞれそういう仕事をされていたので“その仕事ってどうやったらいいんですか?”っていうのがはじまりですね」
――よく「次」を考えずに辞めようと思いましたね。
「大学の先生って簡単になれるものじゃないですよね。自分も先生になった後にいろいろな会議に出て、教員採用のプロセスの厳しさを見てきました。僕のときにもこういうことがあったんだなって思うと、きちんと辞める承諾を得ないかぎり次の仕事を探すのは筋が違うなと。周りのみなさんには“オマエはボケか”“オマエはアホかと”言われ、説得されました。“じゃあ次何をするんだ”ってみなさん聞いてくるから“決めてません”と答える。“そんなことで大丈夫なのか?”って言われるんですけど、逆に“すでに次の仕事見つけてたら怒りません?”って聞いたら、“あ、そやな…”と(笑)。僕は天理に育てられて天理にお世話になり、天理に住んでます。そこの筋だけは通さないと最低ですよね」
――会社は、奥さんが社長になられてますけど、篠原さんも出社してお仕事されたりするんですか?
「営業に行ってますよ。こういう仕事って飛び込みではなく、いろんな方からご紹介いただいて先方に伺うんですね。なんかテレビで見たことのあるヤツが来るので、“変なことはしないだろう”と思っていただけてるんじゃないですかね」
――最初はそういう目的でテレビに出られたのでしょうか。
「ええまあ。会社の宣伝になるから出ろよと」
――柔道の関係以外で最初に出られた番組って何ですか?
「『あの人は今』みたいな感じの番組に、『あの人』の方で(笑)。当時すでに会社は開いてたんですが、先輩の会社のトラックに乗せてもらってたんです。そこにカメラが来て“え、もしかして柔道の篠原さんですか!?”“はい、そうです”っていう。実は最初1回断ったんです。そしたら先輩が“バカかオマエは、出ろ”と。先輩にしてみれば、自分の会社が映るというのもあったのかな。オンエアでは先輩の背中もちらっと映ってましたね(笑)。宣伝もそうなんですが、“篠原は廃棄物関係の仕事をしているんだ”ということを世間に知らしめておいた方がいいという判断もありました。そのころは全柔連(全日本柔道連盟)の問題があったときで…」
――ああ、ありましたね! 暴力問題とか、JSC(日本スポーツ振興センター)の助成金の不正受給とか。
「同じタイミングで自分も大学を辞めてるので、“篠原もなんか関係してて辞めさせられたんじゃないのか”っていう雰囲気があり、“そうではありませんよ”と知ってもらうために」
――それがはじまりだったんですか! 今、ウィキペディアには「バラエティタレント」っていう肩書も加わってますよね。
「僕は芸人さんみたいにしゃべりのプロではないということは肝に銘じてます。考えて考えてしゃべってウケることはまずない。何か言って“ここ結構面白がられてる”と気づいたところをその場で広げる程度で。芸人さんは心底すごいと思いますよ。毎日テレビに出て地方にも営業に行って、それでなおちょっとしたことを面白くするための準備を欠かしていない。その努力と頭のよさ、笑いの技術には舌を巻きますよ」
――今、篠原さんにとってテレビのお仕事ってどういう位置づけですか?
「お金をいただいて出させてもらっているかぎりは、求められている結果は出さないといけないと覚悟してます」
――ゲストで出られた『新チューボーですよ!』調べによると、去年の上半期のテレビ出演が6本。今年上半期は94本。急激に露出が増えたことで、かえって飽きられてしまう可能性もありますよね。本業ではないけど本気で取り組んでらっしゃる篠原さんとしては、その辺、どう考えてらっしゃいますか?
「呼ばれなくなったらなったでしょうがないですね。もちろん1回でも多く出させてもらうに越したことはないですけど。現場で他の方を見て“スゴい! 面白い”って感じたことを取り入れながらちょっとずつ領域は伸ばしてるつもりではあるんです。それまでは黙ってたところで、“こういう出方をすればいいのか”って試してみたり。結果“オマエ、バラエティ慣れしすぎやろ!”ってツッコまれてみたり(笑)」
――それはそれでまたよし、という。
「僕テレビでも、最初よくしゃべってたのがやっぱりシドニーの決勝の話だったんですよ」
――それで出演も増えて少しずつ素の面白みも出されるようになってきて。
「そういう意味でもあれはやっぱり大きなできごとでしたね。今テレビに出させてもらっていて思うのは、芸人さんたちから吸収できるだけ吸収したいなと。それをテレビで活かせるかはわからないですけど、普段の生活で絶対何かの役に立つと思ってるんです。毎日が勉強です……」
――なるほど…。
「あ! 僕、今いいこといいましたね。ウン、“毎日が勉強!”(笑)」
6月に胸を小さくする手術を行った17歳のアリエル・ウィンターが、すっぴんで恋人と街を闊歩する姿がパパラッチされ話題を呼んでいる。
米テレビ人気シリーズ「モダン・ファミリー」などで知られるアリエルは、身長約155cmで56Kgと太めの体型。しばしばネットいじめの対象になっていたと言われているが、その一因となっていたのが大きすぎる胸だった。
それによって立っていることもできないほどの首や腰痛に悩まされていたほか、レッドカーペットで胸のことばかりが話題になるという精神的及び肉体的なストレスを抱えていたアリエルは、長年相談していた医師の判断のもと、胸の縮小手術を決意。6月に、日本サイズでF70からD75に縮小手術を行った後は、「生まれ変わったみたいに人生が明るくなった」と語っていた。
「アリエルは、胸の大きさで女優の仕事も制約があるとストレスを抱えていたが、2014年2月から交際を初め、縮小手術の際も支えてくれたローレント・クラウドと順調交際を続けているようだ。ノーメイクで街を闊歩するアリエルは、胸を小さくしたことですっかり自信を取り戻したようだ」と関係者がナショナル・エンクワイラー紙に語っている
こわもて俳優・寺島進(51)は、北野武監督(68)の映画の常連だ。その風貌はヤクザや刑事役で重宝される一方、下町育ちならではの人情味がにじみ出て幅広い作品で存在感を発揮している。「愛・恩義・結束力」を家訓に掲げる男気あふれる人柄。2児の父で、オムツ替えもお手のもののイクメンでもある。
インタビューを行った喫茶店で寺島が注文したのは、フルーツミックスジュース。イメージとのギャップに驚いていると「タバコを吸ったから甘いのを飲みたくなっちゃってさ」と照れ笑い。対面してみれば、くりっとした瞳がキラキラしている優しい顔だ。「俺、優しいんだよ。そういう(こわもての)役が多いだけ」と笑って強調した。
東京都江東区深川の出身で、実家は畳店。下町の職人の中で育ったからこその気っぷの良さ。「子供の頃から目立ちたがり屋だった」といい、近所の人から「俳優に向いてる」と勧められ、高校卒業後、俳優養成所の三船芸術学院に入所。歌舞伎町の飲食店で黒服のアルバイトをしながら通い、殺陣に目ざめた。
「演劇の勉強は嫌いだったけど、殺陣が好きで向いてると思った。アクション俳優やスタントマンに憧れてたね」
殺陣師の宇仁貫三氏に弟子入り。斬られ役の大部屋に所属していた時、故松田優作さんと出会った。小劇団の舞台に客演した際、稽古場を見学に訪れた優作さんが「いいねえ」と褒めてくれた。それが縁で、優作さんの初監督作「ア・ホーマンス」(86年)で映画デビュー。「チンピラ役で、ただ歩いてるだけなんだけど“いいねえ”って褒めてくれる。うれしかったなぁ」
俳優人生に大きな影響を与えたのは北野監督との出会い。監督デビュー作「その男、凶暴につき」(89年)のオーディションで役を射止めた。
「その頃よく食事や飲みに連れていってくれて“にいちゃん、役者は一生できる仕事だからな、死ぬ間際に天下獲ったらそいつの勝ちだぜ。今売れてなくてもな、何十年後に売れたらいい。ずっとやり続けろよ”って言われて、うれしくてね。一生この世界でやり続ける覚悟が決まった」
28歳だった92年、北野監督が仕事でハリウッドに行くと聞き、渡米。ロサンゼルスで会えるチャンスを待った。
携帯電話もない時代。国際電話で北野監督の事務所に宿泊先を伝言したところ、北野監督が迎えに来てくれた。酒を飲みながら、ニューヨークから1カ月かけてバスで横断してきた珍道中を話すと「なんでうちのやつらはむちゃばっかするんだろうな」と大笑い。「“うちのやつら”って言ってくれたことが凄くうれしかった」としみじみ。その場で「ソナチネ」(93年)へのキャスティングを約束され、大役に抜てきされた。紛れもない北野組の常連となり、他の監督の作品に起用されるきっかけになった。「親に金借りてアメリカまで来たかいがあったと思った。アクションを起こさないと何も始まらない」
97年、「HANA―BI」が出品されたベネチア国際映画祭に自腹で参加し、金獅子賞(グランプリ)受賞の瞬間に立ち会った。「たけしさんは育ての親みたいな人だから、うれしそうな顔してるのを見るのが何よりも幸せ。あの人がいなかったら今の俺はないもんね」と感謝する。
落語家・桂歌丸(79)が会長を務める落語芸術協会主催のファンイベント「第九回 芸協らくごまつり」が18日、東京・新宿の芸能花伝舎で行われ、オープニングイベントで歌丸、副会長の三遊亭小遊三(68)、春風亭昇太(55)、ナイツら人気者が勢ぞろいした。
車椅子で登場した歌丸は「歩くことと正座をすることが苦でして」と説明したが「6月7月と腸閉塞で入院しまして。『先生、どういう病気ですか?』と聞いたなら、『腸が閉塞するんです』と言われ、いまだに分からない」と病気ネタの小咄が飛び出すなど元気な様子。「体調は?」と聞かれると「ダメ」と笑顔で即答し笑わせた。
また、昇太は、女優の吉田羊(年齢非公表)が「最悪50歳で結婚していなかったら昇太さんとしときます」と話したことについて「僕とするのは『最悪』ってことですよ。向こうが49で結婚したら僕の人生台無しになるでしょ!」と苦笑い。変わらず仲は良いと言うが「最近会ってないですね」と明かすと、歌丸が「昇太さんは結婚しない方がいいよ。自分の働いた分を自分で使える。カカアもらったら1円も使えなくなっちゃうもん」と援護射撃した。
一方、3月に離婚したヨネスケ(67)は「いいですよ、最高ですよ。内弟子に戻ったみたい。それよりもジャイアンツが負けたのが悔しい!冗談じゃないよ」と明るく近況報告。「ヨネスケさんは毎年営業があってらくごまつりにこなかったのに、今年に限って来た」とナイツに冷やかされ「人間落ち目になったら仕事がこない…」と笑いに変えていた。
なお、歌丸は7日に死去した橘家円蔵さん(享年81)についてコメントを求められたが、場の雰囲気を考慮し「よしましょう」と語らなかった。